備考 |
当遺跡は出雲平野北側の北山山系の南麓に位置する縄文時代から近世に至る複合遺跡である。調査成果としては、最下層の斐伊川の堆積作用による砂礫層から縄文時代~弥生時代後期中葉の遺物が出土している。その上層のシルト層上面から黒色粘質土層の調査では弥生時代後期後葉~古墳時代前期初頭の集落跡を確認しており、礎盤を伴う布掘建物跡などを検出した。出土遺物には、朝鮮半島系、西部瀬戸内系、中国山地系などの非在地系土器や、水銀朱精製土器、木器未製品、漆採取容器なども見られ、対外交流や生産活動の拠点的な集落であったと推測される。古代末から中世初頭の遺構には、およそ1町の間隔で平行してのびる大畦状の遺構を確認しており、条里地割に基づいて形成された可能性が考えられる。中世後半~近世初頭には、伊努谷川の旧河道とみられる堆積層から卒塔婆状木製品や人骨などが出土しており、河道付近で葬送儀礼や供養行為が行われていた様子がうかがわれる。 |